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当時、新聞などで下馬評に上がった総裁候補は、Fのほか、元経済企画庁長官のM勇、審議委員人事でも名の出たN研究センター会長のK泰、K義塾大塾長のT泰彦、元首相の宮沢喜一、N銀OBでは丹治誠、N晃ら。
Mが候補者を列挙した「Mリスト」を提示したとの報道も出た。
その後、Mに聞いてみた。
「人選に私はまったく関与していない。
私は自分の後任を選ぶのが責任だと思ってやったわけではない。
辞めるのが自分の責任だと思っていたのだから。
リストなんてのも知らないし、一切、だれも推薦していない」先に見たように、MにはN銀不祥事発覚前から、大蔵バッシングに絡めた政治圧力がかかっていた。
惜淡とした性格のMにすれば、次官、大手行の頭取・会長を経て、N銀総裁の座をすでに三年以上務めており、今さら地位に連綿とする気持ちはなかったろう。
総裁の座はこれまでN銀と大蔵省がたすき掛けで占めてきた。
大蔵出身の自分が辞任すれば、次はN銀の番だから自分が口を出すよりも、N銀内部で決めるべき人事との割り切りもあったと思われる。
N銀にとって誤算だったのは、総裁辞任とともに、次期総裁のはずのFも辞任に追い込まれたことだった。
N銀OBの中では今も「総裁も副総裁も辞任する必要がなかった」との前述の意見のほか、「総裁辞任で責任をとったのだから、副総裁は辞める必要はなかった」との声もある。
確かに、総裁を補佐する副総裁まで辞めると、組織の指揮を執りきれなくなる。
ただ一方で、大蔵省は大臣と事務次官が辞任していた。
N銀不祥事は大蔵出身のMの責任というよりも、N銀プロパーのFの監督責任のほうが大きいとの見方が、永田町や霞ケ関では自然だった。
自民党内でもE隆美が「M総裁は外(大蔵省)から来たお客さんのようなもので、責任があるのはN銀に長くいてすべてを把握している副総裁。
その副総裁が(責任をとらず)総裁になるなんてもってのほかだ」と論じるなど、風当たりは厳しかった。
大蔵、N銀を比べての一種のバランス論だ。
F擁護に時あらずと見切りをつけ、総裁人選に動いたのが、元総裁のM康だったという説が一般的である。
Mは政界実力者の竹下登と懇意だった。
一重野がN銀同期のH優を推薦、竹下経由で首相の橋本龍太郎が受け入れたのではとの解釈だ。
ある時、この点をMに聞いてみた。
だが、Mは当然のように、そうした憶測を否定も肯定もしない。
実際にMが総裁候補選びで動いたのは事実のようだ。
Mも、最初はFを推薦したとされるが、「大蔵、N銀両方の関係者は一切ダメ」という官邸の強いスタンスに、やむなく民間人候補NはN銀の金融政策に関心を持っていたが、その時点では、財界総理である経団連会長の座に内定してその諸般の事情とは、Hの推薦者が、実はMではなく、元首相の細川護照と自民党前幹事長のK静六だったという説だ。
細川は九三年八月に日本新党を率いて、「非自民」の連立政権首班の座に就いた。
その時、HはN会長であるとともに、経済同友会の代表幹事。
非自民で、小選挙区比例代表制並立導入などの政治改革路線を推進する細川を、改革を求める経済界の代表の一人として、Hは事あるごとに、支援のエールを送った。
その後、二人は肝胆相照らす関係になったとされる。
N銀総裁人事が急浮上した時点で、野に下っていた細川は政界再編成を目指し民主党結成に向けた調整の最中だった。
自民党に代わる政権党の再構築を意識した細川が、新N銀になって一変するであろう金融政策のかじ取り役の人選を真剣に考えていたとしても不思議ではない。
一方で、九七年末から九八年春にかけて、Kは銀行への第一次公的資本注入を主導するなど、強烈な問題意識で、与党の危機回いた。
それを蹴ってN銀に回るのは、財界人としてあり得ない選択だった。
Mは一方の那須に的を絞り、自らT電実力者の平岩外四と那須本人に会って口説いた。
だが、答えは「ノー」。
こういう経済情勢では、いかに官邸とN銀のサポートがあろうとも、金融政策のプロではない那須に、総裁の重責は務まらないとの反応だった。
他に民間人候補も浮かばない中で、Mは次善策としてN銀OBだが民間経験の豊富な人を探した。
C銀行会長の玉置孝も候補に挙がった。
だが、官邸が判断しきれないまま、諸般の事情を経て、結局、H優に辿り着く。
伝えられる説はこうだ。
細川が与野党を越えた政治のパイプを使って実力者のKに働きかけ、改革派としてHを推薦した。
そのKが、本命の候補者に固辞されて困り果てていた橋本に「Hしかいない」とささやいた。
本当かどうか。
Kは二○○○年六月に鬼籍に入った。
細川は新N銀法施行後の九八年四月末、「散りぬくき時知りてこそ世の中の花は花なれ人も人なれ(細川ガラシャとの句とともに突如、政界を引退した。
橋本は当時の事情を、その後一切、発言していない。
ただ、Hと同時に、急遼、副総裁としてN銀入りしたF作弥は後に、「純民間経済人一人が固辞し、H氏は一人目に打診された」とH選出の経の典型でもあった。
に、Hが浮上した際、自民党内には非自民の細川政権時代に、Hが再三語った反自民的言動を問題視する批判が一部で出た。
だが、すぐに官邸サイドはそうした不満の声を封じ込んだ。
緊急避難的人事を政争に絡める余裕はないとの判断だったか。
HはMと同じ一九四七年のN銀入行で、理事まで務めた。
年齢はその時点で七十二歳、ほどなく七十三歳になる高齢が多少、引っ掛かった。
その一方で、理事退任後にN岩井の社長、会長を経て、経済同友会の代表幹事を経験した点で、準民間人と言える経歴も目を引いた。
Hの起用に、N銀同期で親しい間柄のMに反対する理由はなかった。
Hは、N銀のロンドン駐在参事、外国局長、外国局担当理事などを歴任した国際派。
国内の金融政策を扱う企画畑の経験がほとんどない点が難と言えば難だったが、カトリックで頑固さを備えた物言いは、伝統的なCマン三月十六日夜、Hは東京・沼袋の自宅で報道陣に囲まれた。
会見に応じたHは、「N銀を離れて二十年になるが、難しい時期だ。
(私は)多少ともN銀を知っているのと、商社に勤めて外から見てきたこともあり、お役に立てるかもしれない」と語った。
緊張というより、N銀時代には叶わなかった総裁の座が時を経て、転がり込んできたためか、自然と笑みも出る会見だった。
Hの笑顔をテレビで見たあるN銀幹部は、「この非常時に不謹慎」と苦虫を噛んだ。
混乱状態のN銀は喜怒哀楽も混在させていた。
人心一新は総裁だけではなかった。
二人体制となる副総裁の一人に、当初予定されていた理事の永島旭の昇格も見送られ、永島は退任した。
代わりに、審議委員の人選でFの相談相手にもなったジャーナリストのFが抜擢された。
Fが当初から考えていた若手理事のY泰の副総裁昇格だけは予定通ただ、Mの計算はあくまでもリリーフ。
いずれ、世の中が正常化したらFにバトンタッチをと、考えていたようだ。
「自分と同様、Hでは新N銀には古過ぎる」と。
Hがそうした役回りを承知して引き受けたかどうかは定かではない。
その後、在任中に一度にわたって総裁辞任騒動が起きたことを思えば、何とかしてHも新N銀を意識して、本命のFにつなごうとしたフシはある。
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